☆彡いのちの抱擁

もう何年もの間
ずっと小さな小川のほとりを二人で歩いていると思っていました。

君との会話はいつもぎこちなかったけれど、
そのぎこちなさこそが、互いの領分を侵さないための、もどかしくも優しい気遣いでした。

共に過ごした時間は、名もない野花を眺めたり、並んで歩く歩幅を合わせたりといった、
淡く、けれど確かな色彩に満ちた日々。
視線が合えば、それだけで言葉にできない安らぎが胸に満ち、
この小川のように穏やかな幸福が永遠に続くのだと、疑いもせずに信じていたのです。

でも、何日か会えない日が続き
ふと、気がつけば、君は大きな川の対岸を歩いているではないか。

手を伸ばせば触れられる、ただの微かなせせらぎだと思っていた。
それなのに、いつの間にこの流れは、
これほどまでに濁り、轟々と音を立てて二人の間を遮るようになったのだろう。

対岸の君は、まだ穏やかに笑っているように見える。
けれどその声は、重くのしかかる水音にかき消され、もう一文字も届かない。
視線が交差するたび、僕たちが共有していた「同じ道」という幻想が、鋭いナイフで削り取られていくようだった。

「待ってくれ」

叫びは喉の奥で泡となって消える。

隣を歩いていると思っていた君が、
いつのまにやら、僕の知らない孤独な岸辺を歩いていたのだという恐怖に、
足元が崩落するような感覚を覚える。

僕は岸辺を走り、君の名前を呼び続けるが、川幅はあざ笑うように広がるばかりだ。
このまま歩き続ければ、いつか二人の姿は点になり、そのまま風景に溶けて見失ってしまうだろう。
そんな未来に耐えるくらいなら、この不条理な「隔たり」そのものに、僕は消された方がいい。

理屈ではない、生存本能さえも置き去りにした衝動。
僕は、眼を閉じたまま、君に会いたくて、二人を分かつ激流に飛び込んだ。

冷たい水に体温を奪われ、息ができず、孤独と絶望の中で死ぬほどもがく。
しかし、流れは容赦なく、僕を押し流し、飲み込もうとする。

「君に会いたいだけなのに、なぜこれほど苦しいのか」

僕はやがて、抗う力を失い、もう逆らうこともできずに、川の中に深く沈んでいく。

「ああ、あなたに会えて素晴らしい人生だった」

「でも、もう一度、あなたに会いたかった」

意識が遠のいていくその刹那、何かが僕に寄り添うようなものを感じた。
それは、冷たいはずの激流の中で、ふと肌に触れた柔らかな熱のように。
自分を打ちのめし、引き裂こうとする水流が、
ある瞬間を境に、僕を拒絶する暴力から、僕の輪郭を確かめるような緻密な愛撫へと変わっていく。

水面に反射する光が、まぶたの裏で君の瞳の輝きと重なり、
僕を押し流していた轟音は、いつしか聞き慣れた君の鼓動の音へと溶けていく。

それまで感じていた逃げ場のない水の重みは、僕をどこかへ連れ去るための恐怖ではなく、
僕という存在を一片も漏らさず、強く、深く、その腕の中に閉じ込めるための温もりのよう。

「ああ、そうだ」

川の向こうに君がいるんじゃない。この川が、君だったんじゃないか。
自分を苦しめていたはずの水圧は、実は君の抱擁の強さだったんだね。

僕は溺れていたんじゃない。最初から、君の中にいたんだ。

そう気づくと、
僕の胸が溶けるほど甘くなり
この世のものとは思えないほどの幸せを感じました。

岸辺も、空も、僕を追い詰めていたあの濁流も、もはやどこにも存在しません。
世界はただ、君という名の透明な拍動に満たされた、一つの大きな「命の入れ物」になりました。

僕はどこまでが自分自身で、どこからが君の流れなのか、その境界線さえも見失っています。
触れている指先が、君の肌なのか、それとも僕自身の熱さなのか、もう区別もつきません。

目の前が光でいっぱいになって、それが君の吐息なのか、僕の喜びなのか、それさえも分からなくなっているのです。

全ての意味は溶け去り、残されたのは「僕が君の中にとけこみ、君が僕の中に満ちている」という、
ただ一つの、逃れようのない絶対的な真実だけでした。

もう僕たちは
恋人たちがする以上に近づくことができて
言葉よりもしっかりと思いを分かち合うことができます。

もう何ものも
一つになった僕たちを二つに分けることはできません。

だからこのまま何度も何度も愛し合ったままで
どこまでも川の水のように流れていくのです。

 

☆ちょうど一年前に書いた「こころの接吻」とタイトルを揃えてみました。内容が少し大げさすぎないかというところは私もそう思うのですが。ただ、一周年ということで、表現できるギリギリのところまでがんばってみたという感じで。だから、あくまでも「作品」として、イメージが伝わればいいかなと思っています。おかげさまで、右手の方はようやく少しよくなってきました。ホントに痛かったんだよ。